「大地!?大丈夫!?」
いつも冷静な誠吾さんの声が響く。
その数週間前、自社サービスの新しい目標に対する戦略を考える「ガチ」合宿の開催が発表された。
毎年恒例のマネージャー合宿とは異なり、ポジション関係なく希望者がプレゼンを行い、合格者だけが参加できるという新しい試みだ。
俺自身、地方創生事業を担う立場としてその目標を追う過程で、うまくいかず苦しんでいる最中だった。
だからこそ、開催が発表されるや否や、誰よりも早く立候補しようと即刻立候補の連絡をした。(新卒のシミに先を越されていたらしいが)
数日後、兵庫県の信金で事業支援部長でいつもお世話になっている宮垣さん、同じく豊岡で出会ったスーパー高校生・田辺君の推薦メッセージと共にプレゼンを行い、参加に漕ぎ着いた。
合宿当日の朝、俺は参加メンバー3人を乗せたレンタカーで目的地へ出発した。
さすがは立候補メンバー。道中は合宿の話題で持ちきり。
しかしそれがあだとなり、途中で道を間違えてしまった。
到着した頃には俺たち4人以外の全員が揃って席についている状態だった。
数分後に合宿開始時間を迎えた。集まったメンバーは合計15名。
目標に対して各メンバーが協力体制を確認し、ロードマップが完成したところで会議は無事終了した。
しかし夜も更けた頃、俺とシミが誠吾さんに呼び出された。
そこで初めて、今朝の遅刻を指摘された。
「でかい目標に向かって立候補したメンバーが集まってる中で、真っ先に手あげたお前らが遅刻してどうするんだよ!」
遅刻の罪悪感と目標進捗への苦悩の中が相まって、気付いたら俺は真夏の合宿所のベランダで気を失っていた。
奇しくもそれは、9月6日0時。
佐々木大地、26歳の誕生日を迎えた瞬間だった。
ーーー
そんなことがあると、人間って人生を振り返っちゃうもんなんだな(笑)
「日本沸騰屋」という屋号を引っ提げ地方創生事業に勤しんでいる俺だが、日本を良くしたいと思う人間になった原体験は、10代の頃に地元・宮城で経験した東日本大震災だった。
車も電車も止まっている震災直後、俺は衝動に駆られて十数時間歩いてボランティアに向かった。
そこで初めて、遺体を目の当たりにする。
「死」についてなんて考えたこともなかったが、「人って死ぬんだ」と認識したのがこの時だった。
そして、その現場で活躍していたドクターヘリがさらに俺の心を揺さぶる。
窮地に駆けつけて救命活動を行う救急隊員、超かっけえ...
この2つの経験で、俺の使命は「人助け」だと考えるようになった。
それから数年後、大学卒業した俺は消防庁への就職を決めていた。
消防士になれば人助けはもちろん、ヘリパイロットの資格も取れる。
期待に胸を躍らせていた。
「この世のカオス」と呼ばれているインドってどんな感じなんだろ?と放浪の旅に出た俺。
そこで運命的な出会いを果たす。
電車の中で、突然12歳の少年が「ジャパニーズか?今の日本の政治はどうなんだ?」と話しかけてきた。
当時それに答えられるほどの考えがなかった俺に、アカシュックは説教を始めた。
「日本人は、自国の政治について考えてなさ過ぎる。国への誇り、感謝もない。もう少し政治に関心を持ったらどうだ?お前が変われば国はきっと良くなるぞ。ちなみに俺はインドを...(永遠インド愛語られる)」
めちゃくちゃ恥ずかしかった。インドでは12歳の少年ですら自覚している「政治がマジで自分の生活を左右させるんだ」という認識が俺にはなかった。
彼をはじめインド人で出会った人々はなんというか、めちゃ人間臭く生きていた。
日本では世界一汚い川と言われているガンジス川、世界一危険な祭りと言われるホーリー祭...
そこで出会った人はみんな笑って、楽しんで生きていたし、俺自身危険を感じることもなかった。
自分らしくバカみたいに楽しんで生きていくことって素晴らしいな、死ぬまでそうありたいな、とその時感じた。
↑説教をくらった後、仲良く記念写真撮影。
ガンジス川で沐浴したり対岸まで泳いだり(わかる人にはわかるが、過酷の極み!)する日々から帰国し、1週間後に消防庁に入庁した。
究極の自由から帰って来た俺が入ったのは、今度は使う言葉から何から制限される組織だった。
そしてそこに蔓延っていたのは、「考えたら負け・みんなやってるからやれ・見て見ぬ振りしとけ」という同調圧力だった。
そんな組織でも飲み会はよく行われるのだが、出るのは愚痴ばかり。
大好きな酒もまずく感じ、何より自分自身も環境を変えず行動しないで文句ばかり垂れている思考停止人間になっている感覚があった。
もちろんヘリに乗りたいという夢は変わらず勉強を続けたが、選抜試験に落選...
「パイロットになりたいから我慢するんだ」という一心で働いて来たが、結局入庁してからの1年半で自分が人助けの役に立ってる感覚もない。
そう気づき、自分の人生を見つめ直した結果、消防庁を退職した。
退職を考えた時に思い出したのは、アカシュックとの会話だった。
「もう少し政治に関心を持ったらどうだ?お前が変われば国はきっと良くなるぞ。」
「考えたら負け・みんなやってるからやれ・見て見ぬ振りしとけ」の同調圧力。
行政がこうだとしたら、マジで日本やばいな。
「人助けをしたい」という自分の軸が、「日本を良くしたい」に広がった。
転職活動をしている最中、Wantedlyでインビジョンに出会った。
なんだこの面白そうな会社は!と迷わず連絡すると、誠吾さんから速攻返信がきた。
「オフィス遊びに来てよ!」そう言われオフィスへ行き誠吾さんと出会い、そのまま飲みに行くという展開。
前職での飲み会では考えられないほど、希望に満ち溢れた話で持ちきりの飲み会。
特に、同調圧力の根幹になっているであろう日本の教育を変えたいという話にすごく共鳴した。
そして、地方の予算の使い方や改革の遅さの話になり、インビジョンで地方創生事業を任されることになった。
↑兵庫県で運命的に出会った宮垣さんと。宮垣さんはいつもインビジョンのTシャツを着てくださっている。
入社後最初の大仕事は、入社から3ヶ月後。
兵庫県豊岡市が主宰する働き方セミナーの講師だった。
そこで、今後の鍵となる2つの出会いを果たす。
セミナー会場に早く着くと、さらに早くそこにぽつんといた少年。
彼はなんと、働き方に興味を持ち受講に来ていた高校生だった。
そんな田辺くんはセミナー後、「インビジョンで働きたいです」と連絡をくれた。
教育改革を目指している中で、めちゃくちゃ嬉しかったのを覚えている。
彼は今、インビジョンでインターンをしている。
そしてもう1つの出会い。
セミナー内容に興味を持ち話しかけて来てくれたのは、現地の信金で事業支援部長を務める宮垣さんだった。
宮垣さんは、インビジョンの企業や地域も「おダシ(=らしさ)」を出すことが大切だというにする価値観に共感してくれた。
それから、宮垣さんを通してインビジョンが豊岡市の企業の採用支援をすることになる。
ただ、宮垣さんとの出会いで、俺は入社して初めての壁にぶち当たる。
セミナー後、宮垣さんを始め豊岡市の雇用改革を目指す方々と飲みに行った時だ。
俺以外の大人が話している内容が全く理解できなかったのだ。
そして後日、また豊岡で数日間連続の採用支援のセミナーを行った時。
初日のセミナー後、俺はまた宮垣さんたちと豊岡で飲んでいた。翌日に備えさすがにそろそろ解散の流れの中、宮垣さんが耐え兼ねたように言った。
「初日のセミナー内容はおダシが出てない!俺が資料全部印刷し直すから修正してくれ!」
早朝4時からの資料修正を終え、なんとかセミナーに間に合わせた。
この2つの出来事を経て、自分の知識・経験・思いの全てが欠けていることに気づいた。
ガチで仕事してる大人とガチで日本変えていくってマジで甘くなかった。
豊岡で洗礼を受けた俺は、とある県へ。
ここでさらに、改めて自治体営業の難しさを感じた。
何度も出張し打ち合わせを重ねたのだが、結局何も始められなかったのだ。
それからというもの、下調べもしっかりし、絶対に地域が良くなる提案をしている自信があるにも関わらず、うまく行かないことが多々あった。
もちろんうまくいった例もあるが、それでも拭えない葛藤があった。
同じ悩みを抱える営業のコバさんと語り合った結果、1つの答えに行き着いた。
「ビジネスリテラシーじゃね?」
おダシ出して、良い提案をしても、知識もそれに対する思いも中途半端じゃ相手は動かないっしょ。俺は世の中知った風になってたのかもしれない...
そんな中、合宿が行われることになった。
↑田辺くん、インターン内定の瞬間。
病院へ行った後、改めてこれまでの営業先との向き合い方を振り返った。
俺はあの時一度死んだんだ。ここから全てプラスに変えよう。
失神した際、他に異常はなかったもののなぜか右足だけ骨折していたことさえも逆手に取り、松葉杖ではなく一本杖で営業に出るようにしたのもその気持ちの表れだった。(のか?)
そして、自治体のお金の動き方を一から勉強し直し、専門知識はその道のプロを探して学ばせてもらった。
提案方法、人との関わり方、全てを見直した。
それから数ヶ月、何か厄が落ち、全ての歯車が噛み合うように提案がうまく進み始めていた。
「こうすべきだ」をやめて知識をつけ、目の前の人の状況や思いをよく知る。そこから日本を良くしていくのが俺の仕事だ。
アカシュック、ガチで国を変えていくって、マジで甘くないな。