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9度の挑戦!国際公務員としてローマで働く、国連へ情熱を注いだ男 ── Kenji Yamagishi

9度の挑戦!国際公務員としてローマで働く、国連へ情熱を注いだ男 ── Kenji Yamagishi

9度の挑戦!国際公務員としてローマで働く、国連へ情熱を注いだ男 ── Kenji Yamagishi

Fledgeではお馴染み、プロギャンブラーのぶきさんからご紹介いただき、イタリアはローマにやってきました。なんでも中学の同級生で「もの凄い情熱」を持った男がいて、国連で働いていらっしゃるとのこと。それはお話を聞かせてもらわなくては!と、ローマの人気スポット、トラステヴェレ地区のレストランでお話を伺ってきました。

山岸 謙二(やまぎし けんじ)

イタリア・ローマ 国連WFP(World Food Program) 父親を音楽家に持ち、イスラエルで生まれ、5歳までの幼少期をイスラエルで過ごす。大学はアメリカ、ペンシルベニアへ。大学卒業を目前にし、国際公務員として国連に就職することを決意。国連就職への登竜門である外務省JPO(Junior Professional Officer) プログラムへの合格を目指す。JPO応募条件であるマスター取得の為、イギリスへ再留学。1年でマスターを取得し帰国、もう一つの条件でもある職務経験を満たす為に、リーマンブラザーズ、NGO組織、青年海外協力隊など様々な経験を積み、35歳でJPOプログラムに合格し、単身ローマへ。3年間のプログラム期間を経て、国連WFPに採用され、現在はローマ生活10年目を迎える。

追い続けた国連への夢

のぶきさんから、国連にもの凄い情熱を注いだ男がローマにいるときいてやってきました!現在はローマでどんなお仕事をされているんですか?

山岸 謙二(以下、山岸):現在僕は、国連WFP「World Food Programme」(※)というローマを拠点とする組織で、食糧支援を行いながら飢餓問題とたたかっています。発展途上国や戦場への支援になるので、世界各国に拠点がありますが、僕は食糧を運ぶトラックを管理する部署にいるため、本部のローマで働いています。

※WFP
飢餓のない世界を目指して活動する国連の食糧支援機関として毎年約80カ国 8,000万人に支援を行い、飢餓とたたかっています。紛争が自然災害などの緊急時に食糧支援を届けるとともに、途上国の地域社会と協力して栄養状態の改善と強い社会づくりに取り組んでいる。
参照:国連WFPホームページ

WFPで働かれてどのくらいですか?

山岸:もうそろそろ10年になりますね。2008年に渡伊して、はじめの3年間はJPOという、日本政府による国連組織への派遣プログラムをつかって働き、その後WFP側に採用されました。

「もの凄い情熱」とは、どういうことなんでしょう?

山岸:もの凄い情熱かどうかわかりませんが、JPOプログラムに受かるためにいろいろと職を転々とし、9回挑戦したということですかね(笑)

9回もですか!!!?

山岸:はい。しかも、JPO参加資格の年齢制限ギリギリで、やっと合格したんです(苦笑)

そ、、、それは「もの凄い情熱」ですね!ここに辿り着くまでのお話を聞かせて下さい。

山岸:少し長くなりますが。。(笑)

国連就職への第一歩、JPOまでの長い長い道のり

山岸:まず、国連で働くためにはどうしたら良いか調べてみると、先に言ったJPOプログラムに参加するのが一番の近道だということがわかったんですね。

ですから、そのJPO受験のための受験資格を満たすために様々なことをしました。

まずは、アメリカの大学卒業後は日本に帰国し、ユネスコ関連組織でアルバイトをして職務経験を積みました。その後、受験必須資格であったマスター取得のために、イギリスに留学して、開発学を専攻。留学期間中にも、国連組織でインターンシップをし、国連の実務を経験しました。

修士論文ではオセアニア島嶼国について書いたのですが、マスター取得後、短期でも国連で働けないかと模索する中で、それを管轄する国連組織がフィジーに多いと聞いて、すぐにフィジーに飛びました。

何かあてがあったんですか?

山岸:なかったですね(笑)飛び立つ前、片っ端から国連で働いている人の連絡先をインターネットで調べて、何人かとアポを取って現地で会ったのですが、仕事は見つからず途方に暮れていました。そんな時にコミュニティー開発を行っているNGOの方に出会って、しばらくそこでボランティアとして働かせてもらいました。

このころJPO1回目を受験しましたが、書類落ちしています。

フィジーの観光ビザが切れて日本に戻ったのが28歳。一度は民間で経験を積もうと、金融機関を中心に就職活動を行い、なんとかリーマンブラザーズで働かせてもらうことになりました。「国連に受かったらすぐ辞めます!」と面接で言ったことで一度は不採用になったものの、二度目のチャンスをもらって無事に採用されたというエピソードもあります(苦笑)

入社して1年目は受験せず、その後毎年挑戦しました。勤続4年がたったころ、またJPOに受かる可能性を上げようという想いから、開発の世界に戻ろうと、青年海外協力隊に応募。無事合格し、リーマンブラザーズを5年で退職し、フランス語圏マダガスカルに派遣されました。

マダガスカルではどんなことをされていたんですか?

山岸:マダガスカルは、電気も水道もない、携帯も通じない村に2年間派遣され、マイクロファイナンスを行いました。 これはとてもいい経験になりましたね。

しかし、JPO受験では結構苦労しましたよ。JPO試験は一次はTOEFL、二次は面接なのですが、ともにマダガスカル国内では受けられず、わざわざ国外に出る必要がありました。しかも国外滞在日数が限られていたため、1年目はパリとジュネーブ、2年目はモーリシャスと東京、それぞれ3-4日間の滞在で一次二次試験を受けることになりました。

それでも、その2年間では合格できずに、任期を終えて、また日本に帰国。

帰国後は、ありがたいことに昔の同僚を通じて、またリーマンブラザーズで働かせてもらうことになりました。そして、働きながらJPO受験資格最後の35歳を迎えます。泣いても笑ってもこれが最後の受験です。

二次の面接の際、面接官の方がたまたまマダガスカルを経験されたことがある方で、なんだか馬が合って、採用して頂けたんです。それが、9度目のラストチャレンジでした。

本当におめでとうございます。

山岸:ありがとうございます。合格後、働ける国連組織を一年以内に見つけなくてはならなかったのですが、縁あってWFPの組織の方と話す機会があり、無事に職務につけたのが2008年の10月でした。

一度決めたことは、やり遂げたい

ちなみに、国連を目指すキッカケは何だったんですか?

山岸:アメリカの大学卒業を目前にして、さて就職はどうしようかという時に、たまたま書店で国際公務員という仕事があるのを知ったんです。その時に、「あ!これだ!」って思ったんですよね。その時は単純に、「かっこいいな」っていう憧れ意識のだったと思いますね。

国際的に働きたいという意識はあったんですか?

山岸:幼少期をイスラエルで過ごしていたことが大きく関わっているかもしれませんね。どこかで、そこまで国際的にと明確なものがあったわけではありませんが、ヒトとは違う自分にしか歩めない人生を歩みたいと考えていたと思います。

それにしても、9回目のチャレンジという根気強さには脱帽です。途中で諦めたくなったりしませんか?その情熱はどこから来るんですか?

山岸:「決めたから」ただ、その一言に尽きますね。そこはもう自分が決めたことにどこまで向かっていけるかって言うのは、自分次第ですから、信じて突き進むしかないですよね。

夢がかなっているいま、今後の展望はありますか?

山岸:実は3年のJPO期間終了後、現在まで頂いている契約は1年ごとの契約で、まだWFPの正規職員になれていません。なので、なんとかJPO 試験には合格しましたが、その後の10年は正規職員になるための戦いでした。しかし、それもようやく今年中に何とかなりそうです。なので、JPO試験を受けだしたころから数えると、ようやく20年かかって国連の正規職員になれたということになりますね(笑)

今後ですが、僕がいま携わっている分野の関係上10年もローマにいますが、ローマに固執しているとかはないんですね。せっかく国連の組織にいれているので、どうせなら、アフリカ等、現場で仕事がしたいなと思っているんです。解決すべき問題はやはり現場でしか見られないとも思いますから。

これからも、国連で頑張る日本人として、少しでも世界の問題解決に貢献できていけたらなと思っています。

編集後記

とにかく熱い男、のぶきさんからのご紹介なだけあって、国連に注がれた情熱はさすがでした。「一度決めたことだから」と自分の決意をやり通せる人ってどれだけいるでしょうか。諦めることなく突き進み、夢を叶えるって、本当にカッコイイ!
国際公務員として、国連の一員として、これからのご活躍も楽しみです。お忙しい中、ありがとうございました。

── Special thanks to Nobuki.A