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流れに身をまかせる柔軟性と、変化に順応するタフさで辿り着いた、教授としてのキャリア── 松原福美

流れに身をまかせる柔軟性と、変化に順応するタフさで辿り着いた、教授としてのキャリア── 松原福美

流れに身をまかせる柔軟性と、変化に順応するタフさで辿り着いた、教授としてのキャリア── 松原福美

サンディエゴを後にして向かったのは、アメリカ北東部イリノイ州。シカゴの空港から車で約一時間、シカゴ郊外にあるネイパービルと言う小さな街です。その街の中心にあるノースセントラル大学では、私の友人が日本での仕事を辞め、夢を追いかけて勉学に励んでいるのですが、なんとそこに日本人の教授がいらっしゃるとのこと。教授室にお邪魔して、お話を伺ってきました。

松原 福美(まつばら ふくみ)

アメリカ・イリノイ州 ネイパービル ノースセントラル大学 日本語教授 大阪府出身。大学卒業後、専門商社に入社。その後、夫のMBA留学に付き添い渡米。自身も大学院に入学し、修士号と博士号を取得する。学位取得後に予定していた日本への帰国が白紙なったことでアメリカでの就職活動を開始、教授という仕事に出会う。現在はノースセントラル大学の日本語コース責任者として、教壇に立つだけではなく、様々なプログラムの構築を推進し、同大学の発展に尽力している。

意図せず始まった、海外留学と海外就職

まずアメリカに来たきっかけから教えてください。

松原 福美(以下、松原):私は日本の大学を卒業して、日本で就職をして結婚してって、ごくごく普通の生活をしていたんですね。その生活に転機が訪れたのは、「会社を辞めて、アメリカでMBA取得をしたい。」という夫の一言からでした。驚きはしたものの、まあ面白そうだし行ってみようと、夫と一緒に渡米することにしたんです。

一緒に行くと決めたのはいいものの、奥様としてボーッとしてるだけではつまらないなと思って、それじゃあ私も勉強しようと大学院に行くことに決めました。

ただ、夫が通う学校の近くで私の学校を探す必要があったので、私が学べる学校も分野も少ないわけです。その少ない選択肢の中から選んだ結果、応用言語学とTESOLという外国語としての英語教育にかかわるプログラムを専攻することに決めました。そこで修士号を取得したら帰国するつもりだったんです。

ところが、修士号の取得と帰国を目前にして「MBA資格を取得しただけでは意味がないので、ここで就職して経験を積む」という夫の決断により、計画が変更になりました(笑)また、ボーッとしていられない私は、今度は夫が勤める会社近くで博士号を取得できる学校を探して入学しました。

そして、それでは終わりません(笑)

次は何が起きたんですか?(笑)

松原:当時はインディアナポリスといって、少し田舎の地域に住んでいたんですが、「小さな町だけではなくて大きな都市でも経験を積みたいから、シカゴオフィスに異動させてもらう。」と夫が言い出したんです。

そのタイミングでは、博士号取得までのコースワーク自体は終了していたものの、博士論文はまだ手付かずの状態。それを終えてからにしてほしいという私の希望とは裏腹に、もう異動の話はトントン拍子に進み、シカゴ行きが決定しました。

さて、私はどうしようかと。博士号はなんとか取得できたとしても、その後は働くことになる。

日本に帰国したら応用言語学とTESOLの修士号と言語教育の博士号を活かして英語を教える職に就こうと考えていたのに、英語を母国語としている人がいっぱいいる中で、私はその学位を使ってどうして仕事を得られようか、と。

まさか日本に帰らないなんて…(苦笑)

松原:まあ、でもそんなことを言っていても仕方がないので、シカゴから通える範囲で日本語を教えられる大学を探してみたんです。そうしたら、幸運にも2校が日本語の募集をだしていました。1つは博士号を取得してからではないと採用してもらえなかったんですが、もう1つの学校は博士号取得予定でもOKとのことだったので、そこで働くことが決まりました。それが今私がいるノースセントラル大学です。

日本語教授としての新たな道

現在はノースセントラル大学でどんなことをされているんですか?

松原:簡単にいうと、日本語プログラムの責任者をやらせてもらっています。カリキュラムを考えたり、教科書を選んだり、学生の課外活動に付き合ったり。もちろん教壇にも立ちますよ。外国語としての日本語を教えるという仕事です。日本語だけでなく、日本の文化も教えるんです。

日本文化もですか!?今まで学ばれてきたのは英語ですから、全く違いますよね。

松原:そうなんです。それに日本語プログラムの教師は私しかいませんでしたから、毎日が必死でしたね。日本語プログラム自体は私がここに来る前から存在していたんですが、カリキュラムはまだまだ作り途中といったところでしたから、そこからのスタートでした。

カリキュラムを覗いてみると、フランス語やスペイン語のようなヨーロッパの言語のものと同じように作られていたんですが、日本語を教えるにあたっては違うアプローチの仕方をすべきだと思ったので、カリキュラムも改定しましたし、徐々に選択できるコースも増やしていきました。

それに、日本語の教科書ってフランス語やスペイン語のように充実してないんです。だから初めの頃は、毎日毎日、宿題作りに小テスト作り、それに加えて授業のプラン作り、授業で使う資料の作成で、もう一日一日がすごいスピードで過ぎ去っていきました。

結局、博士論文はどうされたんですか?

松原:そんな仕事漬けの日々でしたから、学校が夏休みになる期間しか論文は手をつけられませんでした。だらだらしてしまうのも嫌だったので、働き出して2年目の夏になんとか書き終えて、無事に博士号を取得することができました。

ついにですね。とにかくここまで大変な道を歩んでいらっしゃってますね。

松原:ハハハ。
確かに、博士課程の教授には「You’re doing it the hard way!」って言われましたね(笑)

苦労と思えば苦労ですが、不思議なもので、大変だった時や辛かったことってよく覚えているし、学んだこともしっかりと身についている気がします。

選択した道を精一杯突き進む

本当に沢山の紆余曲折を経て今ここにいらっしゃいますが、ご自身をそれほどまでに突き動かしてきたと言いますか、踏ん張ってきたと言いますか…その原動力は何でしょうか。

松原:今は当時の夫とは別の道を歩んでいるのですが、もともとは彼の決断についてきていただけで自分で判断していたわけではないので、大したことは何もしてないんです。

ただ、その中で、自分ができることは精一杯やりたいし、どうせやるなら面白いことをしたい。やりだしたら中途半端ではなく、最後までやり遂げたい。そういった想いは昔からはありますね。

そういえば、鶴見さんは青山学院大学出身なんですよね。実は青山学院大学との交換留学プログラムもあるんです。

えー!そうなんですか?

松原:はい。ここネイパービルで出会った方とのご縁で青山学院とのつながりができて、そこから始まりました。

私が来た当初はそのあたりも整備されていなかったので、日本の大学との提携も少しづつ増やしています。毎年冬には研修旅行もやっていて、学生を日本に連れて行ったりもしますね。

日本企業への就職支援なんかにも取り組まれていると、とある記事で拝見しました。今後もそういった新しい取り組みをされていくんですか?

松原:そうですね、やってみたいことは色々とあるんですが、今はちょうど変革の時なんです。

ノースセントラル大学は現在三学期制なんですが、2019年秋から二学期制に移行します。ですので、それに伴ってここ数年はカリキュラムの再編などで忙しくなるのかなと思っています。

学校全体としても、新たな学習目標を作成すると共に、一般教養教育のあり方の見直しをしているので、その新しい枠組みの中でいかに日本語プログラムを維持し、伸ばしていくかかが大きな課題になってきますね。

私個人としては、とにかくここまで突き進んできたので、プライベートを充実させてゆっくりしたいなぁなんて思っていたんですが、それはまだまだ先になりそうですね(笑)

インタビューを終えて

自分で判断しているわけではないからとおっしゃる松原先生。その優しい笑顔と暖かい雰囲気の裏側には、すこやかなる野心と内に秘めた力強さが感じられました。

時には、先生のように自分の意思では判断できないこともきっと出てきますよね。そんな時に、今目の前にある環境で精一杯やる、最後までやりきる、そして、変化に柔軟に対応するタフな松原先生の姿を思い出したいですね。

当初は30分の予定のインタビューでしたが、2時間もお話をしてくださいました。試験期間中のお忙しい中、本当にありがとうございました。

Special thanks to Kazune.